■2、民族差別撤廃運動停滞の経緯

「民族差別撤廃運動が停滞する経緯なのですが、在日コリアンの運動が日立闘争を契機として70年代に祖国志向路線から在日志向路線へと変遷していきました。それまでは韓国民主化、祖国統一運動というのが主流だったのですが、それに対して私たちを中心とした『民闘連運動』が在日を基盤とした運動を新たに提起していきました。これは一方で、いわゆる『南北両国家へ従属していた運動からの脱却』ということを意味していたと思います。
 しかし、しばらくすると、民闘連運動の基盤であった地域活動、例えば地域における子ども会活動や福祉事業といった“事業”が闘いの成果として、行政保障されるようになりました。次いで、闘いによって獲得した行政"事業"を闘いに優先させるという状況が出てきました。そういった、いわば『事業派』と、そうではなく、あくまでも闘いが第一だという『自立派』との間で対立が起きます。これが民闘連運動が分裂した大きな契機となっています。
 民闘連運動は、南北両国家の従属から脱却しようとしてきたわけですが、結果としては、行政事業を守らんがために闘いを控えるようになりました。今思えば結局、日本国家への従属が既に始まっていたのではないかと思います。
 国籍条項撤廃から次の闘いへの転換として、これは81年頃の話ですが、民闘連の第7回の全国交流集会の時に提案された日本国籍積極取得論。これは運動体の中で一番早かったと思います。しかし集会は混乱し、結果としては『二度とこの議論はしない』という形になってしまいました。結局のところは『道なき処に道を創る』という、何者をも恐れない『大衆が望むのであればその道を行く』という志で始まったのですが、組織が出来上がり、一定の影響力ができれば、それを守ろうとする傾向が生まれていき、そういった流れに迎合していこうとする動きがありました。
 90年代後半から、我々が従来から緊密に連携していた仲である解放同盟の大阪府連合会(以下、府連)による我々に対する組織的な内部撹乱・妨害事件が起きました。具体的には旧民闘連の分裂した『事業派』を取り込みました。また、私が手がけた子ども会のメンバーにも深く入り込み、KMJもそうなのですが、裏で介入して結局はこれらの人たちが府連の系列下に再編成されるということがありました。これが私たちが経験した民族差別撤廃運動停滞の大まかな経過だと考えております。」

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