在日コリアン人権協会理論研究会 書面参加

国籍を巡る沈黙と埋没

弁護士 李 宇海(在日コリアン弁護士協会理事)

 本紙11月19号に、在日コリアン人権協会(LAZAK)が主催した「第1回在日コリアンフォーラム」に関する記事が掲載された。この記事からは、同フォーラムで弁護士協会から提示した見解が十分に伝わらないと感じたため、紙面を拝借した上、理事の一員として所見を述べたい。

弁護士協会の見解

 このフォーラムで弁護士協会が提示したのは、現行の帰化制度による日本国籍の取得ではない(そのような意見は、当日の主催者からの配布物にも発言にも一言もない。)。現行の帰化制度が、在日同胞にそのエスニシティーの抹消を迫るものであることは、近刊の労作「在日外国人と帰化制度」(湯川晃弘・新幹社)がリアルに著すところでもあり、またフォーラム当日に配布された弁護士協会からの「呼びかけ」にも、「(現行の帰化制度のもとで)日本国籍を取得する者は自らに負荷された歴史性の抹消を余儀なくされる」と明記してある。弁護士協会の見解は、現行帰化制度がはらむ歴史性の抹消と人権侵害性を前提とし、これらを破砕して、在日同胞に対する法制度上の差別を撤廃させる途を提起したものである。その内容を要約すれば、「日本国籍を自らの意思だけで自由に取得でき」(当日配布の「基調報告」)、かつ「在日コリアンがそのエスニシティーを保持しうるための・・・積極的な制度的措置」(同)を規定した法制度の策定である。
 この定期に対して向けられている論難の趣意は、前期の記事中にもあるように、「日本国籍の取得は在日社会の埋没をもたらす。あくまで外国籍を保持したまま権利取得を目指すべきだ。」というものである。

沈黙する国籍

 ここでいわれる「外国籍」の虚実を、私見を交えつつ問いたいと思う。「朝鮮表示」で外国人登録を行っている在日同胞には(無論、「韓国表示」で外国人登録を行っている在日同胞にも)、極々一部の例外を除けば、個々人を北朝鮮の公民であると認める戸籍ないしそれに類似した制度の摘要はない。「朝鮮表示」の在日同胞にとって、自らがコリアンであると記された公文書は、実に弾圧立法である日本の外国人登録法に拠るほかには存在しないのである。ある個人が当該国の国民であることを、他国が認定することはできない(ハーグ国籍条約2条)から、これは無国籍状態と呼ぶほかない。勿論、在日コリアンが北朝鮮の国家意思形成に制度的に関与しうるはずもない。
 一方、韓国に戸籍を持つ者は法制度上は韓国国民である(北朝鮮から韓国に来た同胞が、帰化手続を経ることなく国民として扱われているように、実は北朝鮮に居住する同胞にも潜在的には韓国国籍がある。無論、在日コリアンのうちで「朝鮮表示」で外国人登録をしている者についても同じである。)。しかし、その「国民であること」の実体は、ほぼパスポートの受給と戸籍への登載に尽きている。国民として国会意思の形成に関与することもなければ、(家族法の摘要を除けば)韓国国家から統治を受けることもない。私達の生涯にとって、いまある国籍とは、民主政の観点からも社会権保障の観点からもほとんど機能しない、いわば「沈黙する国籍」である。
 このように、在日同胞にとって南北国家の国籍は実体に乏しく、民族的アイデンティティーの拠り所としてしか、ほとんど機能していない。しかし、筆者はなにも、単にこの実態と国籍の乖離を埋めるべしと言いたいのではない。在日同胞が、このほとんど機能しないものに拠り所を求めてきたことには、いまさら言うまでもなく十分な理由がある。1952年5月2日に日本国籍が剥奪され、日本国憲法による人権保障の枠外に放り出された在日同胞は、帰化に伴う屈従を拒んで、民族的矜持を堅守しようとした。在日同胞はこの民族的矜持を、南北国家の発展や民主化や、民族統一国家とそれに伴う日本国家との間での包括的な植民地支配の清算への希望につなげてきた。いわば、今ある国籍は沈黙していても、民族の将来はこの国籍を豊穣なものへと変貌させるという希望のなかで、「コリアの国籍」を胸に抱くように持ち続けてきたのではないか。
 しかし、そのような希望の実現は、かなりはっきりと可能性を失いつつある。南の国家で実現した民主化は、そのような在日同胞の希望にいささかでも現実性を与えたであろうか。一方、北の国家の参上は目を背けようにもできないほど真実となった。この先の民族統一への階梯が、在日同胞の全的な人権保障を派生させていくものではないことは、もはや所与のものとしていかねばならない(その上で、もし統一国家への階梯が私達になんらかの恩寵をもたらすなら、それは大きな喜びとして受け取ればいい。)。
 私達が胸にかき抱いてきた「コリアの国籍」は、いまや私達が南北両国家の統一国家に希望を託せず、まぎれもない日本国家の構成員としての道を行くほかない現実を、沈黙しながら語っているように思える。

議論の蓄積を

 それでもなお、無国籍のまま、あらゆる差別を解消しようとするのは、掛け値なしにラジカルな人権運動であるとは思う。しかし、その場合、国政参政権の欠如をも差別と呼ぶのであろうか。これを差別と捉えてその取得を明確に主張してきた運動体は、在日党を除けば、皆無に等しいのではないか。この課題は、欲しいのに言えないとでも評すべき状態で、宙づりにされてきた。これを差別と呼ばず、その取得を主張しないでいうのなら、在日同胞は日本国家の政治過程の核心部分から排除されたまま、永遠に「制度的隷属状態」(高英毅弁護士)でいることを背んずることになる。
 一方、仮に無国籍のまま国政参政権まで取得するならば、それは、我々がまぎれもない主権者となって、しかし日本国民にはならないということにほかならない。「主権者としてこの国を統治する者にはなるが、日本国民という『汚名』を着て統治されるのは拒否する。」という意見に、理論的な理由を見いだすのは難しい。しかし、筆者は、これを感情論として一蹴するには躊躇も感ずる。私達にとって「コリアの国籍」が、前記のようなアイデンティティーと希望の保塁であった以上、この感情にもまた十分な理由があるからである。
 筆者は、法律家のはしくれとして、被差別の個人史の抹消を余儀なくされながら毎年1万人の同胞が日本国籍を取得していく惨憺たる現実に、比較の上で最も早く対処できる途は、新たな日本国籍取得制度を含む在日コリアンに関する基本法の策定であると考えている。比較多数の日本国籍同胞の出現に伴っても、なお、在日同胞社会を埋没から救抜できるかもしれない最も有効な方途がこれであると考えている。無国籍者のままでこの国の主権者となることを主張する同胞の論者には、これより有効な方途を具体的に示して、議論の蓄積に寄与して頂くことを念ずる。

<目次>