在日コリアン人権運動の理論構築について(要旨)

HM05E015 徐正禹
(指導教授 吉田勝次)

1、はじめに

 1970年日立就職差別裁判に始まる民族差別撤廃運動は、1980年代に最も高揚したが、1990年代後半以降、今日に至るまで停滞状況にある。停滞の契機となったのは、地方参政権獲得運動に対して、政府与党のプロジェクトチームが発表した日本国籍取得特例法案である。外国籍のまま参政権を要求する運動と世論に対して、日本国籍を届出によって取得できるこの法案は、それまで、日本国籍取得をタブーとしていた、在日コリアン団体の虚をつく結果となり、参政権運動は急速に後退した。
 他方、民族差別撤廃運動が最も高揚していた1980年代、外国人労働者の移入が焦眉の課題となっていた経済界から、共生という言葉が頻繁に使用され始めた。共生は外国人労働者を日本社会に融合させるための概念として出発したが、その後、障害者、ジェンダー等あらゆるマイノリティ問題に対処する新たな概念として、1990年代から急速に日本社会を席巻し始めた。
 経済界、行政が共生を積極的に推進し、社会に定着し始めた1990年代以降、在日コリアンの民族差別撤廃運動だけでなく、部落解放運動をはじめとする日本のマイノリティ運動も停滞状況に入った。また、労働運動、反公害運動他社会変革を求める運動全般も停滞した。
 本論は民族差別撤廃運動が、日本国籍取得という壁のまえで立ちすくみ、日本社会を席巻する多文化共生論にからめとられた結果、停滞状況を余儀なくされたとの仮説の下、改めて民族差別撤廃運動を歴史的に総括し、日本国籍取得論と多文化共生論がいかにして、在日コリアンの民族差別撤廃運動を停滞に追い込んできたかを検証し、両論の背景及び本質を解明することによって、在日コリアン人権運動再生のための理論構築に資することを目的とする。

2、民族差別撤廃運動停滞の経緯

 民族差別撤廃運動の起点である日立闘争を担った在日コリアン二世と日本人が、闘争および裁判に勝利した後、恒常的な民族差別撤廃運動を展開することを目的として民闘連(民族差別と闘う連絡協議会)を結成した。民闘連の中心を担った各地の地域活動は、1980年代以降、行政の委託、補助事業にシフトし、事業派と自立運動派に分離し始めた。また、1990年代から、民闘連第3世代と呼ばれる若者たちが、企業、行政を闘う対象としてではなく、共に生きる相手として把握し、闘いを否定する傾向が生じ始めた。さらに、1982年民闘連全国交流集会で議論された日本国籍取得論はその後、内外の批判を浴びた結果、議論を発展させることができなかった。しかし、それに変わる運動の方向性が打ち出せなかったことなどから、1995年に分裂した。
 民闘連の組織を引き継いだ在日コリアン人権協会は、民族差別撤廃運動を拡大し、企業、行政に対する影響力は日増しに増大していった。それまで同和問題以外取り組んでいなかった企業、行政に在日コリアン人権問題の窓口を作らせ、在日コリアン問題の啓発、雇用促進を拡大していった。在日コリアン人権協会の傘下にあった啓発団体を社団法人化し、在日コリアン問題の啓発事業はさらに拡大した。また啓発だけでなく在日コリアンの中小企業を組織し、日本の大企業に事業参入の機会均等を求める闘いにも取り組んだ。
 しかし、このような在日コリアン人権協会の闘いは、同和対策法の期限切れを迎え、行政補助金が削減されつつあった部落解放同盟大阪府連合会に脅威を与えることとなった。それまで自分たちが独占してきた行政、企業の人権予算が在日コリアン人権協会に奪われ、自分たちに配分されるパイが減少すると考えたからである。
 そのため部落解放同盟大阪府連合会は、組織の生き残りをかけて、在日コリアン人権協会の組織崩壊を画策した。まず、在日コリアン人権協会内部の行政事業派を取り込んだ上、1995年に分裂して組織を離れた旧民闘連のメンバーをも包摂し、在日コリアン人権協会に対する中傷宣伝を行った。また、同和事業の削減によって、人事ポスト、天下り先の減少を危惧した大阪市、大阪府の同和事業系官僚は、部落解放同盟大阪府連合会と共謀して、在日コリアン人権協会傘下の各種事業に圧力、妨害をかけた。
 部落解放同盟大阪府連合会と大阪市、大阪府の官僚集団の連携による圧倒的な組織力と巧妙な手法によって、在日コリアン人権協会は混乱と分裂を余儀なくされた。
 部落解放同盟大阪府連合会は、同和対策法の期限切れを契機に、同和問題での予算獲得が困難になった状況を受け、同和対策を一般対策に横滑りさせ、これから拡大する同和問題以外の人権予算を独占して窓口一本化を図り、組織の生き残りを果たそうとした。そのため、部落解放同盟の傘下の各種団体は名称を同和から人権に変更して、あらゆる人権事業の受け皿とする一方、傘下団体に対する人事権を武器にして、組織的縛りを強化していった。
 在日コリアン人権協会が糾弾し、その下で啓発を行っていた企業、行政に対して、部落解放同盟大阪府連合会は、執拗な圧力をかけて在日コリアン人権協会から引き離し、部落解放同盟大阪府連合会が新たに組織した在日コリアン啓発事業の下に参加させた。あらゆる人権の窓口を一本化し、部落解放同盟大阪府連合会がこれを独占したのである。自治体の同和系官僚たちは、部落解放同盟と共謀することによって、既得権を守ろうとして、自治体内部で在日コリアン人権協会つぶしに暗躍した。

3、停滞の主要因―多文化共生論と部落解放同盟大阪府連合会、官僚の共謀―

 部落解放同盟があらゆる人権予算の独占を図るためには、歴史性、社会性の異なるそれぞれのマイノリティ問題を、人権という言葉で統合、集中させる必要があった。そのために、部落解放同盟が、導入した新たな理念が多文化共生論である。多文化共生論は、闘いから調和へ、社会的較差、不平等を個人の自己責任へ、社会変革を啓発へとシフトさせ、マイノリティの闘いを抑制させる。
 しかし、仮にも運動体が闘いを放棄すれば、運動体の自滅を招くこととなる。何故、部落解放同盟大阪府連合会は多文化共生論を選択したのか。それは、部落解放同盟大阪府連合会がすでに、組織の基盤である地域の支部において、大衆基盤を失っていたからである。その象徴が、飛鳥会事件、安中事件を中心とした一連の「同和不祥事」問題である。
 未曾有のマスコミ報道、次々に摘発される関係者。部落解放同盟大阪府連合会は「差別的報道」「問題は行政」との反論を試みたが、一度として大衆的な反撃を組織することはなかった。それはしなかったのではなく、できなかったのである。
 組織の基盤である各支部の活動家の大半は、公務員あるいは行政の外郭団体の職員で占められており、事務所も行政施設内に設置されていた。組織の財政もその多くが行政の委託事業、補助金等で賄われていた。支部大会の案内から運動方針の作成に至るまで、行政職員に委ねる支部も少なくない。対行政交渉の要求書は、予め関係部局と相談し、行政職員が作成するケースも多い。さらに行政の職員が部落解放同盟大阪府連合会の専従者として長年ヤミ出向していたこともある。
 地域の支部員は元々、部落解放同盟の運動綱領、方針に共鳴して同盟員になったわけではない。同和向け公営住宅の入居、解放奨学金の支給、妊産婦手当て、自動車運転免許費助成、保育所への入所等生活のあらゆる面で同和事業が完備されていた時代、支部活動に参加することが制度を享受できる条件であったことから、支部に加入したのである。
 しかし、もはや個人給付を皮切りに、同和地区対象の特別措置制度は削減の一途にあり、制度の多くが統合、廃止された。支部員にとって、部落解放同盟に参加する必要がなくなったのである。
 このような中、皮肉にも飛鳥会事件の舞台となった支部や八尾安中の支部は他の支部に比較して、より多くの大衆を組織していた。「不祥事」を起こした幹部が、企業や行政から不正に得た金の一部を大衆にばら撒いたからである、他の支部は、同和事業が削減され、大衆に配分する事業も個人給付も減少する中、支部員は激減し、支部活動の基本単位である班活動さえ長年機能していない。飛鳥と安中は、制度以外の不正な方法で、利益を確保して、大衆に還元したからこそ、支部大衆を支部に結集でき、組織を維持できたのである。支部大衆が部落解放同盟に求めることは、部落解放という崇高な理念ではなく、また部落差別をなくすことでもなく、さらに差別糾弾でもない。唯一求めることは、利益のみとなった。利益を還元しない部落解放同盟支部は、支部大衆の結集軸たりえなくなったのである。
 部落解放同盟大阪府連合会がこのように大衆基盤を失ったことを見抜いた検察は、阪南畜産の摘発に踏み切った。これに部落解放同盟大阪府連合会が何ら反撃できなかったことを確認した後、飛鳥会、八尾安中へと着手したのである。部落解放同盟大阪府連合会は確実に権力から足元を見透かされていたのである。
 しかし、捜査は飛鳥と安中で止まった。部落解放同盟を崩壊させる意思は権力にはなかったのである。検察の捜査が国策に基づくものであることは、今日では常識となっている。これほどまでに影響を与えた捜査が、国家の意思を無視して行われたなどと考えるには、余りにも無理がある。国家の意思、それは表向きには官邸の指示だが、その実は国家の官僚の意思である。
 同和対策法が期限切れとなり、部落解放同盟の大衆基盤が弱体化しつつある一方、人権は世界的潮流として、ますます重要性を帯びてきた。同和問題以外のマイノリティ問題は、行政の取り組みとしてはまさにこれから本格的な予算措置が必要とされる。国家の官僚たちは、これを新たな天下り先として確保し、既得権化を企図したのである。ときあたかも、部落解放同盟は組織的に弱体化し、抵抗力を失っている。これを期に、暴力団と癒着した一部分を摘発して、マスコミにリークして世論化し、部落解放同盟の社会的地位をますます低下させ、官僚たちの手でイニシアティブを掌握する。抵抗力を失った部落解放同盟幹部は、自らの地位と生活を守るため、官僚たちの指示に従うようになった。
 こうして、官僚たちは部落解放同盟の組織は維持させながら、他のマイノリティを部落解放同盟の下に集中管理させた上で、部落解放同盟を官僚の支配、管理下に置き、自由にコントロールすることによって、人権予算を支出して、既得権の拡大を狙っているのである。
 ところが、在日コリアン人権協会だけは、在日コリアン差別を人権一般に解消し、管理下に置く部落解放同盟の窓口一本化に反して、独自に企業、行政に対して、窓口を確保しつつあった。これを放置すると、官僚たちの既得権が脅かされることになるため、部落解放同盟と共謀して在日コリアン人権協会に対する組織のかく乱と介入を断行したのである。
 これが民族差別撤廃運動の停滞の基本的要因である。

4、多文化共生論と日本国籍取得論

@多文化共生論

 すでに見たとおり、多文化共生論とは、経済界が外国人労働者を移入するにあたり、定着と管理のために導入した理念である。運動体としては、民闘連が1982年の早い段階で大会のテーマに設定したが、これは祖国志向論に対するアンチテーゼとしてのものであった。しかし、その後経済界や行政が、共生を積極的に推進し、宣伝したため、民闘連の提起した共生はかき消された。
 多文化共生論の本質は、部落解放同盟幹部と国家の官僚が共謀したことに見られるように、運動体をはじめとする社会の各種組織、団体、個人が国家の支配に従順に従うことを目的とした理念である。「対立から調和へ」という言葉に象徴されるように、対立を否定することにその本質がある。
 しかし、国家がある以上支配があり、市民は国家の支配が許容範囲を超えるほどに、市民の権利を侵害したとき、市民は国家の支配と対立し、国家との闘いを通じて、支配をよりましな状態に導くのである。対立を否定することは、支配関係を固定化し、国家の支配のなすがままの状態に置くことを意味する。社会における対立、争いは本来悪ではない。人間は私的利益を目的に行動するが、表向きには全体の利益を主張する。この隠された目的は、徹底的な主張の応酬、即ち争いを通じて明らかとなり、その上で始めて調和が成立するのである。対立を否定したところからは、社会の調和は生まれないのである。
 対立そのものを否定する多文化共生論は、国家こそが人間の作り上げた最高の形態であり、国家のもとに人間が存在しうるのであるから、国家は人間にとって最も尊重し、これに従うべき存在であるという国家主義に基づく理念である。国家の支配を優先する多文化共生論は、その源を国家有機体説に求められる。国家は人間の身体と同じく、頭、手足、内臓その他諸々の器官は、互いに補完しあって生命を維持する。その中でも頭の器官は、全体を統括する機能であって、これが失われれば、全体の生命を保つことはできない、従って、頭を最高の器官と位置づけ、その他の器官はこれに従うべき、との思想である。要するに、国家の支配に諾々と従うことが、社会の調和と安定を保つという結論に至るのである。多文化共生論の本質とは、時代が変化しようとも、常に頭をもたげる国家官僚たちの思想なのである。

A日本国籍取得論

 参政権運動に対置された結果、参政権運動、ひいては民族差別撤廃運動総体の停滞の引き金となった国籍取得特例法案は、在日コリアンの日本国籍取得に関する態度が明確化されていなかった弱さを暴露した。在日コリアン団体の大半が、この法案に積極的でなかったことの本質は、法案そのものではなく、日本国籍の取得に対する躊躇であった。
 在日コリアンが日本国籍を取得する意義の中で最も重要な点は、自らが生まれ育ったこの日本の社会に責任と義務を持つことである。その中には当然、憲法や法律を遵守することが含まれる。反対論者は、日本国家に忠誠を誓うなど、在日コリアンの歴史から見て、屈辱以外のなにものでもないと主張する。しかし、国家への忠誠という言葉も法律も存在しない。国民である以上、憲法や法律を遵守することは、当然の義務である。しかし、確かに在日コリアンの現実に合わない、制度、法律が存在するのは事実である。だからこそ、私たちは、過去から現在に至るまで、常に闘い続け、より良い制度、法律に変えてきたのである。日本国籍を取得した、ただそれだけで、在日コリアンの抱える課題が全て解決するわけではない。日本国民たる日本人でさえ、さまざまな社会の矛盾の中で、ただ耐えるだけではなく、不断の闘いを通じて、よりましな制度、法律に変えてきたのである。

5、まとめ

 民族差別撤廃運動が停滞した基本的な要因は、日本の人権運動を官僚たちが、既得権拡大のため自らの支配化に再編成しようと企図したことから始まった。これに呼応した部落解放同盟大阪府連合会の幹部たちが、自治体官僚たちと共謀して、在日コリアン人権協会に対する、かく乱と組織介入を行った結果である。
 その思想的背景にあったのは、多文化共生論であり、その源は国家有機体説にある。国家のそれも官僚による一極支配が、人権の世界にまで及んできた結果である。
 これを打破するためにも在日コリアンが政治的力を結集して立ち向かわなければならない。しかし、在日コリアンの世界には、いまだ日本国籍取得に対する抵抗が根強く存在する。日本社会の一員として義務と権利を果たすことの意義が、在日コリアンに正しく把握されていないことの結果である。在日コリアンもまた、朝鮮半島の本国に、自らの未来を託すという祖国志向論から脱却しえていないのである。
 しかし、これもまた、多文化共生論と同じく、国家こそが自分たちにとって最高の機関であり、国家こそ最大に尊重すべき存在であるとする国家有機体説の思想なのである。
 本論は、民族差別撤廃運動の盛衰を総括し、停滞する民族差別撤廃運動再生の鍵が、多文化共生論に象徴される、国家への従属思想を徹底的に解明し、在日コリアンが本国の国民ではなく、コリア系日本国民としての立場から、国家から自立した市民としての新たな視点を確立することによってのみ、民族差別撤廃運動が再生するとの結論に至った。