甲3号証

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陳述書


陳述者  徐 正禹


目次

1.生い立ち

 私は1954年9月14日、山口県美祢市で出生しました。両親は韓国慶尚北道出身の在日一世で、戦前に日本へ渡日しました。私が子どものころ、両親はわずかばかりの田畑と養豚、ドブロク、焼酎の密造で生計を立てていました。養豚は単に育てるだけではなく、自分でさばいて、直接販売していました。これは密造と同様、法律に触れる行為であることから、事件として新聞に掲載されることもありました。私はこれがいやでたまらず、両親に止めてくれと何度も訴えたことがあります。
 悲しいことに、自分の家が貧しく、犯罪のような仕事をしているのは、朝鮮人に能力が無いからであると考えていました。ですから、自分はいつか日本人になるんだと心に誓い、それだけが生きる希望でした。

2.部落解放運動との出会い

 中学3年生の6月、私の家は大阪に転居しました。山口県にいても先の仕事の目途が立たないことと、大阪が当時万博景気に沸き、土木工事の仕事があったからです。
 ところが、大阪に来て間もなく、父が病に倒れ、家族は極貧の生活に陥りました。私は、昼間の高校進学をあきらめ、定時制高校へと進路変更することになりました。ある日中学校の担任の先生が私の家に来て、私を昼間の高校に行かせるよう、母に説得し始めました。私の家族が住む地域が、同和地区で外国人にも解放(同和)奨学金が支給されるからとのことでした。母は喜んでいました。しかし、生活保護を受けていたため、後日ケースワーカーが来て、就職しなければ保護を打ち切ると言い出しました。母は、それなら朝鮮人でも就職できる会社を紹介してください、と訴えるとケースワーカーは黙ってしまい、昼間の高校入学を許可しました。母の交渉力に思わず舌を巻いたものです。
 この解放奨学金を契機に地元の解放同盟支部に関わるようになりました。毎週一回高校生友の会という集まりに通い、部落問題を学びました。始めは、義務として参加していましたが、次第に差別について真剣に考えるようになり、自分が朝鮮人であることを自覚し始めました。自覚すると今度は、部落問題の活動をしていることに矛盾と苛立ちを覚えるようになりました。当時私たち高校生を指導していた部落の青年は、私が悩んでいる姿を理解し、私が高校で朝鮮文化研究会の活動をすることを支持してくれました。
 大学に入ってから地元の地域で、朝鮮人の子ども会活動をはじめました。この活動にも高校生友の会時代の部落の青年たちが支援してくれました。
 しかし、活動が子ども会から、生活要求運動に発展し、地域の公営住宅への入居を求め始めると、地元の解放同盟の中から反発の声が出始めました。青年たちは理解してくれましたが、大人たちは「わしらが勝ち取った成果を横取りするのか」と言い出し、立て看板が夜中の間に壊されることもありました。利害に関わると、潜在していた差別意識が、表に出てきたのです。日ごろは「被差別者同志の連帯」を口にしていても、経済的利害がからむと困難になることをはじめて知りました。
 しかしそれでも、この当時の解放同盟の中には私たちと共に汗を流そうとする人たちが数多くいました。

3.民族差別撤廃運動の開始

 私は在日朝鮮人の子ども会活動を軸に、さまざまな民族差別撤廃運動を開始しました。当時の部落解放同盟大阪府連合会(以下 府連)には、高校や大学のころからの友人もいたことから、私たちの運動への連帯、協力を惜しみませんでした。また解放同盟の関係から、労働組合との共闘関係も生まれました。地方公務員や郵便外務職の国籍条項撤廃、指紋押捺拒否運動の際に、これらの関係は大きな力になりました。
 しかし一方、連帯とは言っても、解放同盟や労働組合の力が強力であったため、在日コリアンの民族差別撤廃運動であるにも関わらず、運動の進め方について、さまざまな干渉が入るようになりました。結局は各々の組織には、行政当局との利害関係があり、私たちの運動は、次第に利用されるようになりました。特に大阪市の労働組合と当局は表裏一体であり、私たちが大阪市に抗議行動をすると、労働組合が逆に私たちを押さえ込もうとしました。「いやならいつでも共闘は解消できる」と言ってはばからないことがたびたびあり、ぎくしゃくした状態が続く中、結局共闘関係は空中分解しました。

4.民闘連から在日コリアン人権協会へ

 私の運動は、当初こそ地元の部落解放同盟との緊密な関係から出発しましたが、次第に在日コリアン独自の運動に移行し、民闘連(民族差別と闘う連絡協議会)の一員として活動するようになりました。民闘連は、日本における民族差別撤廃運動の草分けとして出発(1974年)しました。しかし、行政闘争の成果として自治体から補助金を獲得するようになると、次第に運動から遠ざかる傾向が生じてきました。組織内では、行政依存派と自立派との間で論争が続きましたが、結局、組織を一旦解消して、自立派を中心として在日コリアン人権協会に発展解組しました(1995年)。

5.運動の経済的自立

 自立とは要するに、運動の財源を行政に依存しないこと。具体的には行政あるいは行政の外郭団体の職員にならずに、運動をするということです。
 私たちは企業や行政に在日コリアンの人権啓発を要求して、その事業を受託しました。また、在日コリアンの商工人が日本の企業に事業参入できる道を開きました。これらの闘いを通じて、財源を確保してきました。だからこそ、全く自由で、自立した闘争が展開できたのです。しかし、私たちの経済的自立の試みは、私が以前地元の公営住宅の入居運動をしたころと同様の反発を招く結果となりました。それが、日本生命事件を契機とした、北口氏からの妨害・干渉です。

6.中傷ビラと組織介入

 2000年8月、以前在日コリアン人権協会の役員をしていた者が私達に対する誹謗、中傷のビラを関係各方面に大量に配布し始めました。当初は誰も相手にしていませんでしたが、北口氏がこのビラを材料に企業や行政、マスコミに対して在日コリアン人権協会との関係を絶つよう執拗に迫った結果、多くの団体が離れていきました。
 ちなみにこの元役員は、大阪市のホ-ムヘルパ-に従事する傍ら、在日コリアン人権協会の福祉担当として在日コリアン高齢者のためのボランティアの福祉事業を推進していました。しかし、1999年、ボランティア事業が大阪市の助成を受ける予定になり、さらに介護保険事業の導入が視野に入り始めるようになると、在日コリアン人権協会の傘下にあった「在日コリアン高齢者福祉をすすめる会」を分離し、自分が代表となる別の団体を立ち上げ、今まで準備してきた福祉事業をそこで運営したいと主張し始めました。さらに当面の資金として2000万円を私たちに要求し、受け入れなければ「部落解放同盟に走るよ」と宣言しました。このころ、すでに私たちと北口氏との関係が日本生命事件を契機に悪化していたことを、この元役員は知っていたのです。このときは、組織の混乱を防ぐため、とりあえず600万円で妥協しました。しかし、その後大阪市の助成が任意団体では助成できないことが明確になり、また事実上の個人的運営は許されないとの内部の批判が強まったことから、元役員による福祉事業の運営は取りやめることが役員会で決まりました。
 この元役員は、在日コリアン人権協会の大阪市に対する交渉によって、大阪市社会福祉協議会の事業に在日コリアン高齢者福祉を位置づけさせ、その担当に位置付けられていました。しかし職場で在日コリアン人権協会の名を使って職免(職業専念義務免除)を濫用し始め、人権協会にも職場にも顔を出さない時間が増えたため、私たちが厳しく注意しました。またこのことで、元役員の職場の上司と私たちが話し合ったことに、強く反発したことも大きな要因の一つでした。
 元役員は家庭の経済的事情で、困窮していました。その解決策として、職場では在日コリアン人権協会の役員の肩書きを利用して職免(職務専念義務免除)を活用し、空いた時間で高齢者福祉の事業を個人的に経営しようとしていたのです。ちなみに、元役員の職場での勤務時間は、他の職員に比較して、極端に少なく、勤務評価は最低のランクでした。私たちが、元約員の職場の上司と話し合ったことにより、追い詰められたと過剰反応したことが、主たる動機だと思います。
 それ以降在日コリアン人権協会には全く顔を出さなくなっていたところ、翌年上記のビラを突然配布し始めたのです。ビラの配布先は、企業、行政、マスコミ、出版社、部落解放同盟各組織にまで及び、各団体の人権担当部署も特定されていました。後でわかったことですが、このときすでに元役員は北口氏に相談し、彼との打ち合わせ、あるいは彼の指示の下に中傷ビラを作成、配布していました。
 さらに同時期、府連の私の知人である2人が入れ替わるように、私に面会を求めてきました。それぞれ北口氏の依頼を受けた形で、私に人権協会の会長とKMJ(社団法人 大阪国際理解教育研究センター)の常務理事を辞めるよう説得に来ましたが、いずれも断りました。元役員は、自分が在日コリアン人権協会の会長とKMJの常務理事に就任すれば、福祉事業と組織の財政を私物化できると考えていたようです。また、北口氏にとってみれば、元役員を通じて、双方の組織を自己のコントロール化におくことを目的としたものです。説得に来た二人は、従わなければ大変なことになることを強調していました。
 事実、その直後から在日コリアン人権協会と関係のある企業、行政への圧力が厳しさを増してきました。その後、北口氏が事実上の中心となったNPO法人「多民族共生人権教育研究センター」、「大阪市民闘連(OS民闘連)」を立ち上げKMJ、在日コリアン人権協会に対抗させました。大阪市民闘連は在日コリアン人権協会に対抗する運動体として立ち上げたものの今日に至るまでその実体を見ることはできません。しかし、NPO法人には、北口氏の圧力によって多くの企業、行政、各種団体がKMJから移行しKMJと全く同じ事業を展開し始めました。
 配布されたビラの要旨は、在日コリアン人権協会が企業を脅してエセ行為を行っている、KMJに企業から金を出させ、それをトンネルにして在日コリアン人権協会が不当に資金を得ている。さらに在日コリアン人権協会は、徐(原告)の独裁体制下にあり、それらの資金を徐が個人的に着服しているというものでした。

7.KMJへの検査

 この内KMJに関しては、大阪府教育委員会の認可による社団法人であることから、疑惑を晴らすため当時常務理事をしていた私が直接大阪府教育委員会の担当課長に検査を申し入れました。しかし、課長は確たる証拠も無いのにビラや噂だけで検査をすることはできないとかたくなに断りました。
 ところがしばらくして、突然課長から検査の通告がありました。北口氏から、検査を実施するよう厳しい圧力があったためであることを明らかにしました。検査は、2000年11月から翌2001年2月にかけて徹底的に行われましたが、いくつかの事務的不備が指摘されたものの、ビラに書かれているような在日コリアン人権協会への不当な金の還流はなく、逆に在日コリアン人権協会サイドから資金が投入されていることが明らかになりました。同和問題の公益法人には、それぞれに億単位の補助金が大阪府、大阪市から支出されているのに対し、在日コリアン問題の公益法人であるKMJには一円の補助金も支出されません。このような状態で、そこから更に不当な資金を引き出すことが常識的にあり得ないことは、火を見るよりも明らかでした。
 検査の途中にも北口氏は、大阪府教育委員会に対し、再三にわたって不正の事実を摘発するよう圧力をかけ続けました。大阪府教育委員会の担当者が、北口氏の執拗さに「もういい加減にして欲しい。自分たちも暇ではないんだ。次は、絶対に受けない」とこぼしていたのが印象的でした。検査の結果出された報告書は、疑惑を否定する公の証拠の役割を果たすと判断した私は、ビラが配布された各方面に検査結果を配布しようとしました。しかし北口氏が大阪府教育委員会に対して「徐が疑惑の払拭を大阪府教育委員会がしてくれたとはしゃいでいる。大阪府教育委員会は、一方の団体の片棒を担ぐのか」と厳しく詰め寄りました。そのため、大阪府教育委員会から私に連絡があり、検査報告をそのような目的のために使わないように、との指示がありました。指示に従わなければ、KMJの各種事業に大阪府として後援ができなくなるとのことでしたので、資料の配付はごく一部に制限せざるを得ませんでした。
 このころの大阪府には自治体として堅持すべき公正、中立など、微塵もありませんでした。

8.KMJ夏季セミナーへの妨害

 私が当時常務理事をしていたKMJが主催する「在日コリアンマイノリティ研究夏期セミナー」の2000年度の開催準備の時期に、北口氏から企業、行政に対して後援、参加をやめるよう圧力がかかりました。理由は、前年度に開催された夏期セミナーの記念講演で、講師の発言の中に、部落差別の可能性がある部分があったというものでした。問題とされた発言は、1960年代の大阪市内の同和地区の様子について語ったもので、生活の貧しさから女性達が夕方化粧をして仕事に向かう姿があった、という部分でした。大阪同企連(大阪同和問題企業連絡会)も行政も、北口氏が了解しなければ後援も参加もできないとのことでした。
 この発言のどこが部落差別なのか私達には、判然とせず、何人かの部落解放同盟の関係者に尋ねても、一様に差別とは言えないと答えていました。また、当該地区の部落解放同盟の支部の関係者も同様の見解を示しているとの話しも聞きました。大阪市の人権担当者は「理屈ではなく、とにかく府連が承認しなければ、大阪市は動けない」と言い、大阪同企連も「北口さんと仲良くしてくれなければ、企業は動けない」と言うのみでした。
 しかし、このときは北口氏も実は困っていたようです。夏季セミナーの講師の発言は、解放同盟の誰に聞いても「差別発言とは言えない」と答えていましたし、先にも述べたように、当該の支部も差別とは言えないとの見解だったと聞いていたからです。北口氏は在日コリアン人権協会に対する脅しのつもりで、このような圧力をかけたつもりだったのでしょうけれども、時間が経過する中で、次第に焦りを感じていたのだと思います。
 結局、当時KMJの事務局長であった呉成徳氏(在日コリアン人権協会副会長)を呼び出して、KMJから見解文を受け取ることで、決着することとなりました。このとき、呉成徳氏は北口氏に対して「講師発言の何が部落差別なのか教えて欲しい」といくら聞いても、これには答えず、逆に北口氏は「何が問題か共に考えるために、研究プロジェクトを結成しよう」と言うばかりで、議論が一向に前に進みませんでした。唯一問題であることを指摘したのは、講師が元赤旗(日本共産党の機関紙)の記者であったことから、「解放同盟大阪府連が実行委員会(夏季セミナー)に参加しているのに、このような人物を講師に招くことは」許せないと言うものでした。しかし、セミナーの講師については、実行委員会で議論し、全体の承認を得て決定したものです。当然大阪府連も事前に承知していた事柄です。北口氏は他に明確な理由を見出せなかったため、このような理不尽な理由を無理やりにつけたのだと思います。しかし、このときは夏季セミナーの時期が迫っていたため、呉成徳氏はやむなく、見解文を出すことに同意してこの場を収めることにしました。
 このとき、北口氏は呉成徳氏に対して「在日コリアン人権協会のメンバーが二人相談に来た」ことを明らかにしました。北口氏が在日コリアン人権協会に対して強気になれたのは、この元在日コリアン人権協会役員の存在があったからです。
 夏季セミナー、就職セミナー(KMJ主催、在日コリアン・マイノリティ就職教育セミナー)に対する妨害は、これ以降も続きました。大阪府の担当者は、北口氏から「後援するな」と圧力をかけられたとき「理由がありません」と答えると、北口氏は「理由はおまえらが作れ」と怒鳴ったそうです。さすがに、このときは大阪府の担当者もあきれていました。
 2001年の就職セミナーについては、2000年の年末、大阪同企連の担当者は、北口氏から中傷ビラを見せられながら「こういうビラが出ている。それでも後援するのか。後援しても良いのか。」としつこく迫られ、やむなく後援を中止したと私に語っていました。担当者が言うには、北口氏は、決して後援するな、とは言わないそうです。立て前上は、あくまでも、大阪同企連が自主的に決定したことにするためだということです。強要はしていない、というわけです。しかし、大阪同企連は解放同盟大阪府連の指導を受ける立場にありますから、自主性など微塵もありません。

9.近畿大学差別事件への加入

 2001年、在日コリアン人権協会は近畿大学に対して、帰国子女の受験試験資格の国籍条項撤廃を求める要望書を送りました。帰国子女に対しては、多くの大学が、一般受験者とは別の入学枠を設定していました。ところが、いくつかの大学では、受験資格に国籍条項を設けて、在日コリアンを排除していたのです。他の大学は、回答文を返送し、今後国籍条項を撤廃することを明記していました。ところが、近畿大学だけは、この問題については他の在日コリアン人権団体と協議するとの回答でした。
 この問題については、事前にNHKの記者に取材申し込みを行い、記者もこの問題を取り上げるとのことでした。ところが、NHKの記者が近畿大学に取材を申し入れると、北口氏が現われて「これは誤解である」と弁明し、結局この記者は、取材を途中であきらめました。この話しは私が直接記者から聞いたことです。何故取材を止めるのかと聞いても、口を濁すばかりでした。後で、別のNHKの関係者から事情を聞くと、デスクが中止を指示したのだろうということでした。毎日流される放送の中で、どうしてもチェックミスのため、差別的な発言がありうる。そのたびに糾弾されては、企業として、莫大な損害になる。だから、解放同盟の機嫌をとらなければならないのだということでした。私は「在日コリアンの問題は関係ないではないか」というと、NHKの関係者は「力関係の問題だ」と率直に語っていました。
 それにしても、NHKが近畿大学の民族差別を取材することに、何故北口氏がわざわざ出向いてくるのか、実に不自然という他ありません。近畿大学には人権担当の部局が別にあり、以前から私はその担当者とも面識がありました。ところが今回はその担当者は一切出て来ていません。北口氏は少なくとも、表向きは教授であり、このような場面に出てくる立場ではないはずです。近畿大学は部落地名総鑑を購入したことから、大阪同企連に加盟しており、北口氏は永年この団体を解放同盟の立場から指導していました。
 準備書面5で述べた、ボイスコーダー事件の下りで、私は北口氏が近畿大学に就職したのは、研究者としての実力ではなく、同和対策による雇用の一貫であるとの見解を示しましたが、それだけではなく、日本生命との関係同様、企業の差別事件対策要員としての職務をはたしているのだと思わざるを得ません。

10.企業、各種団体への圧力

① 麒麟麦酒への介入
 1994年麒麟麦酒尼崎工場での差別事件を契機に、在日コリアン人権協会は度重なる事実確認会を通じて、在日コリアンの雇用と人権啓発を確約させました。以降毎年、定期協議を重ねて、確認事項の点検を行っていました。しかし、2002年、麒麟麦酒は在日コリアン人権協会との定期協議の打ち切りを一方的に通告しました。在日コリアン人権協会の会長である李相鎬氏が当時の在日コリアン人権協会の東京事務所で、麒麟麦酒の人事部と面会したとき、麒麟麦酒の担当者は「北口さんから付き合わないようにと、強くいわれている。不満があるなら、北口さんに言って欲しい。」とその理由を明らかにしました。同じころ、私も麒麟麦酒の本社で、人事部長と面談したとき、解放同盟の幹部から「在日コリアン人権協会が俺たちの仕事を横取りしやがって」と怒っていると言われた。だから、これ以上在日コリアン人権協会とは付き合えない、と言うことでした。仕事の中身が啓発事業のことなのか、それとも麒麟麦酒の工場解体への事業参入のことなのかは、明らかにしませんでしたが、北口氏がからんでいるように思いました。
② 近鉄グループへの介入
 1999年近鉄百貨店が近鉄グループ各社に、ファックスを送りました。「クレームを付け金を要求する詐欺常習者」と題した文面には、被疑者の顔写真と関連する情報が、記載されていました。特に問題なのは、名前の欄に日本名の偽名が三つ書かれ、他に「韓国名○○○」と実名(?)が記載されていました。関連会社の中には、このファックスを堂々と掲示板に貼りつけているところもありました。
 そもそも、詐欺が実際に起きていたとしても、犯人は特定されておらず、ましてや、「韓国名○○○」と明記する必要がどこにあるのでしょうか。ファックス文書によると、詐欺常習者はこれまで、全て偽名使用しているのであり、詐欺に注意するのであれば、偽名だけで十分なはずです。詐欺の常習者が本名を使用するはずがありません。このファックス文書を見た関連会社の在日コリアン職員は、職場で針のむしろに座らせられているような辛い気持ちだったと、その心情を吐露していました。
 在日コリアン人権協会は、この事件に関係した近鉄グループ各社と話し合いを行いましたが、あまりにも在日コリアンの知識が不足していたため、事実確認会を一旦休止し、学習会を行うこととしました。しかし、在日コリアン人権協会が近鉄グループと学習会を継続していることを知った北口氏は、近鉄を呼び出し、在日コリアン人権協会と付き合わないようにと圧力をかけたため、近鉄グループは、学習会を途中で中断するようになりました。このことは近鉄の担当者から直接聞いたことです。
 もし、仮に北口氏が関わっていなかったとしたら、近鉄は北口氏の名前を騙って、差別事件から逃げたことになります。
③ 天理教
 天理教は、1993年に生起した天理大学での在日コリアン学生に対する差別暴行事件を契機に、毎年定期協議(後に交流会に変更)を継続していました。2000年に在日コリアン人権協会に対する中傷ビラが配布されて以降、天理教の人権啓発担当者に対して、在日コリアン人権協会との関係を持たないよう、北口氏から圧力がかけられるようになりました。天理教は在日コリアン人権協会の要請により、KMJの団体会員に入会し、当初複数口の会費を納入していました。また、人権啓発教材も購入していました。北口氏はこれをエセ行為だと非難し、さらには、私の個人口座にも天理教からリベートが振り込まれているとして、天理教の人権啓発担当者にその内容を明らかにするよう要求しました。さすがに担当者は私に対して「そこまで疑うのか」と怒りを露わにしていました。
 天理大学の事件では、事実確認会を継続しているさなか、闘いの進め方をめぐって、天理大学の教員たちと、私たち共闘会議の間に意見の相違が生まれました。北口氏は当時解放同盟大阪府連の人権対策部長であり、共闘会議とは関係がなかったにも関わらず、天理教の担当者に対して、教員側の意見を尊重するよう迫ったことがあります。
 この当時はまだ、日本生命事件が起こる前のことです。部落問題ならともかく、在日コリアンの問題で、しかも、大阪ではなく奈良県での事件に関して、このような介入をしていたのです。北口氏はそもそも、被差別の問題の大原則である、当事者性の尊重を根本から理解していなかったのだと思います。
④ TBSブロードキャスター差別事件への介入
 1997年TBSのニュース番組「ブロードキャスター」の放送中、コメンテーターの   嶌信彦氏が神戸で起きた少年殺人事件について、犯人があたかも在日コリアンであるかのような発言をしたことに対して、在日コリアン人権協会がTBSと話し合いを行い、反省と謝罪を認めさせました。最終的に、今後の社内での啓発を求めましたが、抵抗が強く、私が東京に出向いて、赤坂の喫茶店でTBSの担当者に詰め寄ったとき、担当者は突然「この件に付いては、解放同盟の北口さんに相談しています。」と切り出しました。脈絡が無いところでの発言だったので、私が「それがどうかしたんですか?」と聞き返すと、しばらく沈黙して、その話しには二度と触れようとしなくなりました。
 後日電話でそのことの真意を質そうとすると、担当者は「そのようなことは言っていません」と発言そのものを否定しました。担当者は北口氏から、自分の名前を出せば、在日コリアン人権協会が、恐れをなして引っ込むとでも言われていたのでしょうか。思わず、日本生命事件のことを想起しました。
 当時この事件は大きな問題になっていましたから、北口氏も当然知っていたと思います。
 その他在日コリアン人権協会の企業に対する闘いでは、企業の側に立って、私たちとの話し合いに参加しないように働きかけていたとの情報をいくつか聞きました。このため、在日コリアン人権協会の機関紙「リベール」には、これ以降差別事件との闘いの具体的な日程、内容が掲載しづらくなりました。企業の方からも、リベールに掲載されると、北口氏が上司に圧力をかけるので、話し合いを続けることができなくなるとの申し出がありました。

11.北口氏の行動の思想的背景

 以上述べました北口氏の行動の背景はいくつかの問題点が散見されます。準備書面5の「被告北口の妨害行為を許した背景」においてもすでに述べましたが、ここでは改めて思想的背景に絞って述べたいと思います。
 北口氏の私たちに対する妨害行為は、日本生命事件を発端とした個人的な思惑を契機としています。しかし、その背景にある思想は、在日コリアンに対する「排外と同化」にあります。
 北口氏の行動に一貫しているのは、私たちの運動が独自に行動することを抑圧することにあります。日本生命事件はその典型例です。自分たちの指示の下に行動するのであれば、許すが、そうでなければ徹底的に妨害するという姿勢です。
 北口氏はかねてから、私たちの運動を「支援」してきたと、関係者に語っており、本裁判の答弁書でも明らかにしています。しかし、私たちは北口氏から支援を受けたことは一度もありません。北口氏が、しきりに支援という言葉を使うのは、在日コリアン人権協会が独自に企業や行政と闘って成果をあげることがあってはならない、との考えがあるからです。すなわち、部落解放同盟とは全く異なる運動体が、独自に企業や行政から予算を獲得することは、その団体が部落解放同盟と対等な関係にあることを意味することになります。そうなると、企業や行政は窓口を各々に開かざるを得なくなり、これまでの独占的地位が崩壊することになります。従って、これまで在日コリアン人権協会が勝ち取ってきた成果は、あくまでも解放同盟が「支援」した結果でなければならないのです。
 今回の問題点の本質はここにあるのです。
 その独占的地位を守るため、ありとあらゆる手段を駆使して、在日コリアン人権協会に対する妨害行為を繰り返してきたのです。隷属しないのであれば、人権運動の世界から「排外」するというわけです。
 しかし一方、隷属するのであれば、懐に入れて守ろうとします。決して、自立は認めません。それが、北口氏が中心になって結成したNPO法人 多民族共生教育研究センターです。表向きには元在日コリアン人権協会にいた在日コリアンを立てて、背後で操縦する手法です。これこそ、日本政府が一貫してとってきた在日コリアン政策である「排外と同化」そのものです。
 反差別国際運動(解放同盟が中心となって設立した国連NGO)の役員から在日コリアン人権協会を排除するときも、「同じ在日コリアンから在日コリアン人権協会に対する批判が出ている」ことを口実に使いました。この批判とは、前述しました中傷ビラのことです。このときは組織内に「在日コリアン問題対策委員会(代表 江橋崇氏)」が設置されましたが、これに対して私たちは、在日コリアンに対して「対策」とは、あまりにも差別的ではないか、と抗議したところ、さすがに名称だけは変更されました。
 残念なことに、在日コリアンの中には、自分たちの生活を守るため、マジョリティ(多数者)の側に立って、同胞を攻撃する者も少なくありません。しかし、これは日本帝国主義の朝鮮植民地支配において、最も一般的にとられた手法です。帝国主義が侵略を開始する大義名分として「相手国の中から寄せられた要請」に応えて出兵するという形を執ったものです。
 朝鮮を侵略した際も、予め朝鮮国内の不満分子を包摂し、彼らから日本に救援を要請させることによって、大義名分としました。今日のイラクに対するアメリカのやり方と全く同じものです。
 しかし、私はこのような異常事態が、いつまでも続くとは考えていません。同和対策の時限立法が消滅し、新たな運動財源の確保が模索される中における、一時の矛盾だと考えています。
 私はそれでも、部落解放運動の存在意義を否定するものではありません。冒頭でも述べましたように、私は解放奨学金を契機に部落解放運動に出会いました。この当時、奨学金を受給している高校生を指導していた小西さんという地元の解放同盟の活動家が、私の面倒を本当によく見てくれました。いつも言われていたことですが「俺たちは、在日朝鮮人であるお前を指導することはできない。けれども、お前が、在日朝鮮人の差別をなくす運動を始めるための支援ならできる。しかし、お互いの立場が違うことを忘れるな。俺たちはお前の運動に干渉しないし、すべきではない。なぜなら、俺たちは、朝鮮人差別を受けるのではなく、朝鮮人を差別する日本人なんだ。」この言葉を胸に、私は民族差別撤廃運動に取り組んできました。
 北口氏の妨害行為が執拗に展開されていたときも、複数の解放運動の活動かから、貴重な言葉をもらいました。
 「差別されている仲間が、組織の分裂に苦しんでいる時、俺たちのとるべき道は明確だ。仲間が、再び統一できるよう汗を流すこと、それが無理な場合は静かに見守ることだ。間違っても、一方に肩入れして、分裂を促進するようなことは、絶対にすべきではない。」
 運動が混乱の状況下にあっても、人間解放の精神はいまだ健在であることを、同じ被差別の仲間として、歓びとしたいと思います。

12.契約の当事者について

 大成建設が,講演に関する契約当事者は私ではなく,在日コリアン人権協会あると言っている点について述べます。
 私が,被告大成建設で初めて講演を行う際、当時の担当者である城戸雄三さんから、私個人の振込口座を問われました。在日コリアン人権協会との契約ならば、私個人の振込口座を聞く必要はなかったはずです。これに対し、私は在日コリアン人権協会に振り込むよう依頼しました。城戸さんから何故かと聞かれたので、当時私は在日コリアン人権協会の傘下組織であるKJ同友会の職員であるので、講師料は在日コリアン人権協会を支えるための資金にすると答えました。私個人の収入である講師料の使い道を私個人が自由に決めることができるのは当然のことであり、担当者は何らの疑問も差し挟みませんでした。ちなみに講師料の金額をいくらにするかという話のとき、担当者は部落解放同盟の北口さんの額が最高なので、それ以上は出せないということでしたから、私は同じ額でよいと答えました。このとき北口氏も個人で受領していることを知ったのです。
 2003年2月19日の講師料の支払先について私個人に指定したのは、この当時私はKJ同友会の専従職員ではなかったことによるものです。これについて村瀬泰朗さんからは何らの質問もありませんでした。被告大成建設が契約当事者を在日コリアン人権協会であると認識していたのならば、支払先が個人になった時点で、何らかの疑問を呈するはずであり、また企業としてこれを確認することは担当者としての当然の責務でないでしょうか。大成建設が「在日コリアン人権協会と原告間の何らかの都合によるものかと考え」たのであれば、即座にその理由を確認し、後々支障のないように必要な手続をとったはずです。
 このように,講師料の支払先の変化は、講師である私の希望によるものであり、契約とは何らの関係もありません。
 2004年6月2日に私が村瀬泰朗さんに電話で講師料支払の内容を問い合わせた理由は「税務調査」ではなく、在日コリアン人権協会の会計整理のためであり、そのように村瀬泰朗さんに伝えました。そのため,甲1号証の宛名が在日コリアン人権協会となっているのです。ちなみに村瀬泰朗を含めて、大成建設の担当者は私に対しては、KJ同友会の案件に基づく話し合いの場でも通常は在日コリアン人権協会の肩書きで呼んでいました。KJ同友会ならば「会長」と呼ぶところですが、担当者たちは在日コリアン人権協会の肩書である「副会長」を呼称として使用していました。

2006年4月28日

大阪地方裁判所 裁判官殿

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